大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

高松高等裁判所 昭和61年(ラ)55号 決定 1987年8月14日

抗告人 村田美子

相手方 松本トキエ 外3名

主文

原審判を取り消す。

本件を高松家庭裁判所に差し戻す。

理由

一  抗告の趣旨及び理由

本件抗告の趣旨及び理由は、別紙記載のとおりである。

二  当裁判所の判断

1  一件記録によると、次の事実が認められる。

(一)  本件は昭和59年1月20日に死亡した村田光一の遺産分割事件で、当初、相手方三田千賀子を申立人、抗告人及び相手方松本トキエ、同長山英子、同弘田久美を相手方とする調停事件として係属した(高松家庭裁判所昭和59年(家イ)第147号)が、昭和60年6月19日右調停事件が取り下げられ、同日本件相手方4名から抗告人を相手方として審判の申立があり(同庁昭和60年(家)第586号)、昭和61年8月5日原審判がなされた。

(二)  原審判は、相続人は抗告人及び相手方4名で、その相続分は各5分の1であり、遺産は原審判別紙目録記載1ないし13の不動産であるとしたうえ、調査の結果認められる諸般の事情を考慮して、評価額が全遺産の約半分に当る右目録記載1、3、4、6、8の各不動産を相手方4名の共有とし、その余を抗告人の所有とする旨の遺産分割をした。

(三)  右審判に先立ち、原審は昭和61年4月10日抗告人に対し、寄与分を定める審判の申立(以下「本件寄与分の申立」ともいう。)期間を同年5月31日と定め、抗告人に通知したところ、同月27日受任した抗告人代理人から翌28日原審に対し右申立をしたいが、事案は複雑で遺産も多岐にわたつているので、右申立には3か月程度の期間が必要であるとの理由を付し、右申立期間を同年8月31日まで延長されたい旨の上申書が提出された。

(四)  しかし、原審はこれに対しなんらの応答をすることなく、そのまま同月5日原審判をした。

2  右認定事実によると、抗告人は本件寄与分の申立をする意思を有していたが、自らこれをなすことは困難であつたため、原審の定めた期間の終り近くになつて弁護士に右申立を含む本件遺産分割についての代理権を授与するに至つたところ、同代理人は右受任の時期から見て到底右申立期間内に右申立をすることはできないものと判断し、原審に対し右期間の延長を上申したものであり、しかも右上申した延長期間は一応妥当な範囲内のものであつて審理をことさら遅延させるようなものではなかつたことが認められる。

ところで、家事審判規則103条の4に申立期間を定めた趣旨は、手続上の権利濫用ないし信義則違反と認められるときは、右申立を却下しうるものとなし、もつて遺産分割審理の円滑化・促進化を図ることを目的としたものにほかならないから、その運用にあたつては事案の内容や審理の維持等に応じて弾力的取扱をなすべきで、いやしくも事案の適正・妥当な解決を阻害することのないよう留意すべきものといわなければならない。このことは、右申立の期間を1か月以上としてその上限を定めていないこと、及び右期間不遵守の申立についてもその却下を家庭裁判所の裁量に委ねていることによつてもこれを知ることができるところである。そうすると、右期間不遵守の場合においても、それが著しく不当な事由に基づくものと認められない限り、直ちに申立人に不利益を課し、同人の寄与分を斟酌することなくして遺産分割をなすべきものでなく、まして、申立期間延長の上申がなされている場合においては、その内容に応じて適正・妥当な処理をなすべきものといわなければならない。

これを本件について見るに、前記認定のとおり、抗告人がその代理人を選任するまでの間に原審の定めた申立期間のほとんどを費やしていることは怠慢のそしりを免れないとしても、これをもつて故意に審理の遅延を企図したものとは解されないし、また、抗告人代理人のなした右期間延長の上申もその受任の時期からするとやむをえないものというべきであり、審理の遅延を企図したものでないことは明らかである。

以上のとおりであるとすれば、原審は抗告人のなした本件寄与分の申立期間延長の上申を容れて、同人に右申立の機会を与えるべきであつたものと解するのが相当であるところ、原審は右措置を執ることなく、自ら定めた期間を既に2か月余も経過し、しかも抗告人の求めた延長期間をわずか26日残すのみとなつた昭和61年8月5日突如、抗告人の寄与分に対する適式な考慮なくして原審判に及んだものであるから、右は抗告人の右申立の権利を不当に制限したものというほかはなく、違法であることを免れない。

3  そうすると、他の抗告理由について判断するまでもなく原審判手続は不当というべく、本件抗告は理由があるから、更に原審において寄与分を定める審判の申立手続を尽くさせるため家事審判規則19条1項により原審判を取り消し、本件を高松家庭裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり、決定する。

(裁判長裁判官 高田政彦 裁判官 早井博昭 上野利隆)

抗告の趣旨

原審判を取り消し、本件を高松家庭裁判所に差し戻すとの裁判を求める。

抗告の理由

一 原審判については、昭和60年6月19日相手方4名が被相続人村田光一(昭和59年1月20日死亡)の遺産分割につき、審判の申立を行つたものである。

二 ところが今年4月になつて、原審判庁から抗告人に対し、寄与分の主張を5月末日までに提出するよう要請があり、抗告人村田美子は法律には全く素人であり、寄与分の主張をどの程度すべきか、又、その書式も不明であつたところ、5月28日頃抗告人代理人に相談があつた。

三 しかし、抗告人代理人も本事案の内容を十分に把握するには相当の期間が必要であつたことから、今年8月末日まで右期間を延期されるよう原審判庁に上申書を提出した。

四 ところで、原審判庁において、右上申書に対し期間の延期を認めないとか、あるいは右期間をもう少し短縮する等の要求は一切なかつたことから、抗告人代理人は今年8月20日頃を目途に寄与分の主張の作業を進めていた。ところが、何の前触れもなく8月5日になつて突然本件審判が下されたものである。

五 ところで、本件審判を見るに、本件遺産分割において抗告人の寄与分については相当程度認められてはいるが、しかし、なお十分とは言えないものである。以下、抗告人の寄与分について主張したい。

1 村田家の家族構成は次のとおりである。

(一) 父村田光一は、明治40年9月1日に長次郎とナツの長男として現住所に生まれ、昭和7年6月4日にマツエ(明治44年8月4日生)と結婚した。そして、昭和11年1月2日に長女美子、同15年3月12日に二女トキエ、同18年4月7日に三女英子、同22年6月11日に四女千賀子、同24年3月6日に五女久美がそれぞれ生まれた。つまり村田家の子供はいずれも女性ばかりであつた。

(二) ところで、村田光一とマツエは昭和16年に当時11歳で高等小学校を卒業したばかりの村田修治(昭和5年1月7日生)を母方の親類から養子に迎えた。但し、戸籍上は養子となつていないが、実際は養子であつた。そして、以後修治は上級の学校にも進学せず、養父母と共に農業の手伝いをして一家の生活を助けていた。

2 美子は昭和26年3月地元の○○中学校を卒業して、高等学校にも進学せず、家事と農業を手伝つていた。

3 当時、村田家では父光一、母マツエと修治、そして美子が働き、祖母ナツ、小学生であつたトキエ、英子、4歳の千賀子、2歳の久美を養つていた。

4 昭和30年1月28日(但し、戸籍上は昭和32年5月25日)、修治と美子が結婚した。これまで兄妹同様に育つてきた二人が結婚したのであるから当然のことながらその費用は全くかからず、又村田家の生計は殆ど二人の肩にかかつてきた。

即ち、当時農業だけでは十分な生活は不可能であり、美子は結婚後、昼間は○○青果に勤め、夜は料理屋の仲居として働き、又その合間に家事の手伝い、休みの日には農業と休む間もなく文字通り身を粉にして働いた。

一方、修治も村田組の運転手や荷揚げの仕事に出て、傍ら休みの日や早朝、夕方には農業の仕事に従事して一家を養つた。

5 (一) 二女トキエは昭和30年3月に○○中学校を卒業と同時に○○高校に進学し、同33年に右高校を卒業、病弱であつたこともあり就職もせず、又農業も手伝わず家でぶらぶらして、昭和37年12月11日に結婚した。この時の結婚費用や嫁入り道具の購入費用は、田を一枚売つて捻出した。

(二) 三女英子は昭和33年○○中学校を卒業と同時に○○高校に進学し、同36年に右高校を卒業、美子の世話で電話局に就職し、同42年3月28日に結婚した。この時は、美子は親代わりとして結婚相手の親にも会つて結婚話を進め、結婚費用や嫁入り道具の購入費用はやはり田を1枚売つて捻出した。

(三) 四女千賀子は昭和37年○○中学校を卒業と同時に○○高校に進学し、同40年に卒業した後、香川○○○に就職、同44年3月27日に結婚した。この時も母親マツエが同40年に交通事故に遭い、腰骨骨折で動けない状態であつたので、美子が母親代わりとして結婚式に出席したが、その結婚費用や嫁入り道具の購入は田からの収入を充てた。

(四) 五女久美は昭和39年○○中学校を卒業と同時に○○高校に進学し、同42年に卒業して市内の洋服店に就職し、同47年3月28日に結婚した。この時も、父光一、母マツエが共に入院しており、修治、美子が親代わりとして出席し、結婚費用や嫁入り道具の購入費は全て負担している。

6 父光一は昭和47年から糖尿病を患い、○○病院に入院、通院を繰り返しつつ、同59年1月20日に死亡した。

又、母マツエも昭和40年に交通事故に遭い、腰骨を骨折したことが原因で足が不自由な状態となり、その上同45年には脳内出血で倒れ、入院、退院を繰り返していたが、死亡(昭和58年1月4日)する数年前までは自宅で寝たきりの状態であつた。この父母の療養、看護は全て美子とその夫である修治が行つたのであるが、入院中あるいは家庭で寝たきりの老人を世話するというものは言葉で言い表わせるものではなかつた。即ち、風呂に入れるのも二人で抱えながら入れて、身体を洗い、寝たきりの状態で着替えさせ、食事を与え、そして大小便の世話という様に自身の父や母であればこそ誠心誠意尽くすことが出来たものである。

7 この様に美子は、高等学校にも進学させてもらえず、夫修治と共に朝から夜中まで働き、村田家の財産の維持、増加に寄与しているばかりか、祖母や父、母の療養看護に尽くしてきたのである。それに引換え、妹達はいずれも私立の高等学校(その費用も公立学校とは比較にならない。)に進学し、農業や家事の手伝いもせず、そしてそれぞれが結婚して家を出ているのである。

8 本件物件のうち、目録番号9乃至11及び同13の家屋はいずれも美子夫婦の働きによつて建てられたものである。

又、目録番号1及び2の土地は、以前は日当たりも水はけも非常に悪い田であつた。この土地を夫婦協力の下、昭和58年8月に宅地と雑種地に地目を変更して、これを埋め立て、整地をし、目録番号2の土地の東側に橋を架け(東側道路との間には川が流れている。)、目録番号2の土地上に家屋を建築してこれをパチンコ店「○○」に貸与、目録番号1の土地はパチンコ店に来る客のために駐車場として、これも右パチンコ店に貸与しているものである。つまり、右2つの土地はいずれも一体として利用されており、又美子夫婦はこの土地に多大の資本を投下し、現在ではこれが生活の基盤となつているものである。

加えて、右両土地は一体として使用されて初めて、ほぼ同一の価値があるものと考えられるが、これが分離されればその価値の差が生ずるものである。即ち、目録番号1の土地は、その西側が国道11号線に通ずる南北の道に面していると同時に、国道11号線との間には独立しては利用価値のない他人の土地が細長く存在するだけであるのに対し、目録番号2の土地はその東側に川が流れており、橋をかけないと道路には出られない。(橋を作るには水利権者との間で相当問題がある。)その上、国道11号線との間には水路を挟んで他人の土地(独立して十分に利用できる。)が存在しているので、右土地を切り離して考えた場合は、目録番号1の土地の方が遥かに価値が高いものである。

なお、現在は前記他人の土地もパチンコ店に貸与している関係上、これらの土地全体が一体として利用されているものである。

六 原審判の内容を見るに、相手方4名が調停時から主張してきた内容と殆ど同じであり、前記抗告人の寄与分を十分考慮された遺産分割の審判がなされるよう求めて即時抗告を申し立てる次第である。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例